@article{oai:kuins.repo.nii.ac.jp:00000857, author = {若井, 敏明}, issue = {53}, journal = {神戸山手短期大学紀要, Journal of Kobe Yamate College}, month = {Dec}, note = {景行天皇の遠征のあと、九州も大和政権によって国と県が設置された。国県制は景行朝での版図の拡大をうけて、次代の成務朝にそれまでの萌芽的な地方支配の整備したもので、九州東部や南部の国造は、宇佐以外は中央から派遣された王族ないしはその側近であった。この分布は、まだ大和政権に屈していないかつての邪馬台国連合を包囲するようにもみえる。このときには征服されなかった北部九州のうち、玄界灘に面した福岡平野とその周辺の地域は、四世紀の半ばの仲哀天皇による遠征の際には大和に帰順し、内陸部の筑後平野を中心とした地域が最後まで抵抗した。その後大和政権はあらたな征服地に県制を施行し、さらに筑紫国造を置いてかつての邪馬台国連合の故地全般を支配した。  国造となった筑紫君は大彦命の後裔氏族で、その墳墓と思われる八女古墳群の最古の前方後円墳、石人山古墳は五世紀半ばの築造、いずれも筑紫国造が大和政権の北部九州制圧後に設置されたという推定と矛盾せず、筑紫君は九州のほかの国造と同様に中央を出自とする。筑紫国造の重要な職務は、その管理下にある港湾をもって、外国使節を迎えさらに中央へと導くこと、そして海外へ使節や軍隊を送ることであった。磐井がおこした乱は、国造制のもつ限界を朝廷に知らしめたものであり、そのため朝廷は国造制のなかに屯倉制を組み入れてゆく。磐井が反乱をおこした動機も国造政策との関係でみるべきで、雄略天皇以降の国造への抑圧や貢納の強化などがその原因であろう。}, pages = {1--11}, title = {邪馬台国以後の九州と大和}, year = {2010} }